現代社会における信頼性と多様な価値観について
ようやく現代社会における「信頼」とは何かという問いに対する解の取っ掛かりにたどり着けたかも知れない。
要は「対人関係」での信頼と「社会活動(ビジネス)」における信頼は別物のようだということ(職場での対人関係は要素が複雑なのでここでは考えない)。
「対人関係」においては、お互いの個としての人間性を見て信頼できるか判断される。
しかし
「社会活動(ビジネス)」においては、個人個人がその社会における役割を認識して、その役割を果たしているかどうかで信頼できるか判断される。
つまりビジネスでは「相手が望む役割を演じきれるか」が信頼できるかどうかの基準になるようである。
問題は、現実的にはビジネスと対人関係がまったく不可分ではないということに尽きる。例えばビジネスの場である会社での対人関係などは要素が複雑になる。
現在の日本のように社会性を元に信頼を構築しているような社会(他国ではどうかなんて知らんけど)では、それこそ個人同士の付き合いのコミュニティー、もしくは家に帰ったり実名性から離れられるネット空間という場でようやく社会における信頼性から切り離されて、個人同士の信頼性に身を置くことができる。
(しかしネット空間もSNSやネットビジネスなど急速に社会性を導入しようという波が来ている)
どうやら一般の人というのはその両者の信頼性をうまく使い分けることが出来るように思う。それが意識的か無意識的かというのはいくらか個人差がある模様。
極端に意識しなければ使い分けることが出来ない人間というのは、おそらくそれだけで疲弊してしまい一時的には対処出来ても長続きするには相当な困難があると思われる。
--------------------------------------------------
[以下、多様性について]
おそらく社会の構造として、
誕生→家庭→地域社会→小中学校→(高校→大学)→社会人→
と段階を踏む中で社会性とは何かを身に付け、社会人となる頃にはビジネスと対人関係の信頼性の使い分けがある程度自然に出来るようになるのだろう。
だがしかし実際問題として何らかの理由により社会性を身に付けられない人間というのは出てくる。
その理由の一つとして成長段階で身に付ける社会性というのが明確に規定できないためというのがある。
社会というのは決められたものではなく、目には見えないが日々刻々と変化している。変化にはいろいろな要素があるが、その一つとして新たな価値観を持った人間が流入してくることによる。
もし成長過程で現代の社会に適応できないとしても、そういった人間が社会に入っていくことでそれを許容すべく社会が変化していく。
根本的には成長過程においてはどのような価値観でも排除せず、成長してきた多様な人間が入っていくことで社会が自発的に変化する、もしくは価値観を持った人間により変化されていく。
そして社会に新たな価値観が認められることで、その価値観を持った人間が社会性における信頼性というのを認識できるようになる。
新たな価値観を取り入れるスピードと、それを受けた社会の変化のスピードのバランスが取れているかどうかが重要となる。
無闇に価値観を取り入れすぎると、社会の変化が追いつかない。
また社会の変化が遅いと、新たに生まれた価値観が生かされず埋没してしまう。
(おそらく右派(保守)、左派(改革)というのはこういうことから派生したのだろうかと思う)
さて、ようやく個人的に消化できるような解の取っ掛かりに行き着いたようなので、今後は実際問題にどう対処すべきか考えていくことを軸に考えていきたい。
本質的には価値観をただ入れればいいのではなく、どうやって新たな価値観を社会に適応させていくか、またどうやって自らの手で価値観を社会に認めさせていくかというのも合わせて検討すべきなんだと思う。
現実問題としても社会に適応できずにもがいている個人に対してどのように対処すればいいのかというのは非常に大きな問題。
成長過程で価値観を認める(もしくは単なる放置)が、それに誰も率先して適応もしないし、価値観を認めさせる手段も与えずに、ただなるようになると放置し続け、誰かがなんとかしてくれる(最終的には政治)と考えるような空気が蔓延しているようには感じる。
要は「対人関係」での信頼と「社会活動(ビジネス)」における信頼は別物のようだということ(職場での対人関係は要素が複雑なのでここでは考えない)。
「対人関係」においては、お互いの個としての人間性を見て信頼できるか判断される。
しかし
「社会活動(ビジネス)」においては、個人個人がその社会における役割を認識して、その役割を果たしているかどうかで信頼できるか判断される。
つまりビジネスでは「相手が望む役割を演じきれるか」が信頼できるかどうかの基準になるようである。
問題は、現実的にはビジネスと対人関係がまったく不可分ではないということに尽きる。例えばビジネスの場である会社での対人関係などは要素が複雑になる。
現在の日本のように社会性を元に信頼を構築しているような社会(他国ではどうかなんて知らんけど)では、それこそ個人同士の付き合いのコミュニティー、もしくは家に帰ったり実名性から離れられるネット空間という場でようやく社会における信頼性から切り離されて、個人同士の信頼性に身を置くことができる。
(しかしネット空間もSNSやネットビジネスなど急速に社会性を導入しようという波が来ている)
どうやら一般の人というのはその両者の信頼性をうまく使い分けることが出来るように思う。それが意識的か無意識的かというのはいくらか個人差がある模様。
極端に意識しなければ使い分けることが出来ない人間というのは、おそらくそれだけで疲弊してしまい一時的には対処出来ても長続きするには相当な困難があると思われる。
--------------------------------------------------
[以下、多様性について]
おそらく社会の構造として、
誕生→家庭→地域社会→小中学校→(高校→大学)→社会人→
と段階を踏む中で社会性とは何かを身に付け、社会人となる頃にはビジネスと対人関係の信頼性の使い分けがある程度自然に出来るようになるのだろう。
だがしかし実際問題として何らかの理由により社会性を身に付けられない人間というのは出てくる。
その理由の一つとして成長段階で身に付ける社会性というのが明確に規定できないためというのがある。
社会というのは決められたものではなく、目には見えないが日々刻々と変化している。変化にはいろいろな要素があるが、その一つとして新たな価値観を持った人間が流入してくることによる。
もし成長過程で現代の社会に適応できないとしても、そういった人間が社会に入っていくことでそれを許容すべく社会が変化していく。
根本的には成長過程においてはどのような価値観でも排除せず、成長してきた多様な人間が入っていくことで社会が自発的に変化する、もしくは価値観を持った人間により変化されていく。
そして社会に新たな価値観が認められることで、その価値観を持った人間が社会性における信頼性というのを認識できるようになる。
新たな価値観を取り入れるスピードと、それを受けた社会の変化のスピードのバランスが取れているかどうかが重要となる。
無闇に価値観を取り入れすぎると、社会の変化が追いつかない。
また社会の変化が遅いと、新たに生まれた価値観が生かされず埋没してしまう。
(おそらく右派(保守)、左派(改革)というのはこういうことから派生したのだろうかと思う)
さて、ようやく個人的に消化できるような解の取っ掛かりに行き着いたようなので、今後は実際問題にどう対処すべきか考えていくことを軸に考えていきたい。
本質的には価値観をただ入れればいいのではなく、どうやって新たな価値観を社会に適応させていくか、またどうやって自らの手で価値観を社会に認めさせていくかというのも合わせて検討すべきなんだと思う。
現実問題としても社会に適応できずにもがいている個人に対してどのように対処すればいいのかというのは非常に大きな問題。
成長過程で価値観を認める(もしくは単なる放置)が、それに誰も率先して適応もしないし、価値観を認めさせる手段も与えずに、ただなるようになると放置し続け、誰かがなんとかしてくれる(最終的には政治)と考えるような空気が蔓延しているようには感じる。
コメント
コメントを投稿