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化学の話 : ニンジン🥕を切ったらプラスチック製のまな板に色がこびりついてしまう

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ニンジン🥕をまな板の上で切ると、特に白いプラスチックのまな板ではニンジンのあのオレンジ色がこびりついてしまいやすいです。みじん切りに細かく切る場合はとくに色がこびりつきます。 このこびりついたニンジンの色は洗剤を付けたスポンジやタワシでごしごし擦ってもなかなか落ちませんが、これを簡単に落とす方法としては 漂白剤に浸ける 日光に晒す サラダ油を垂らして擦る などがあるようです。以前お酢で落ちるか試したことはありますが、そのときはほとんど落ちずに変わりがありませんでした。 さて、まな板の汚れを落とすライフハックはともかくとして、このしつこいニンジンによる色汚れの原因はなんぞや?というのを考えてみることにします。 まぁ検索すればβ-カロテンがニンジンを切った時の汚れの元ってのはすぐ分かりますね。ネットですぐ情報が得られる。便利な時代になったものです。ただそこで話を終わらせるのもつまらないので、ネットの情報などをひっくるめてもうちょっと深堀りして考えてみることにします。 ニンジン🥕とは そもそもニンジンとは何かというと、セリ科の植物でその根の部分が主に食用とされます。よくスーパーで売られているニンジンはオレンジ色のものが多いですが、その他に紫色や黄色のものがあったりもします。で、その根の色の成分がカロテンというわけです。 ちなみにオタネニンジン(別名として朝鮮人参、高麗人参、単に人参とも)もニンジンという名前が付いていますが、種としては別のもの。元々、人参という名はこちらのオタネニンジンの方に付けられていて、後から入ってきたニンジンは形が似ているからという理由で同じ名が使われたようです(区別のために後から入ってきた方はセリニンジンとも呼ばれる)。 なおセリニンジンも中国で改良が進んだ東洋ニンジン、ヨーロッパで改良が進んだ西洋ニンジンがあり、現在日本でよく目にするのは西洋ニンジンの方。日本に伝わったのは東洋ニンジンが16世紀頃、西洋ニンジンは江戸時代後期のようです。 一言にニンジンといってもこのようにいろいろ指すのですが、それだと話がややこしくなるので今回は目にしやすい西洋ニンジンのことをニンジンと表すことにします。 さて、ニンジンは野菜として重宝されてきました。そしてニンジンに含まれる栄養素がなんだとか色素がなんだとかが分かってき...

現代社会における信頼性と多様な価値観について

ようやく現代社会における「信頼」とは何かという問いに対する解の取っ掛かりにたどり着けたかも知れない。 要は「対人関係」での信頼と「社会活動(ビジネス)」における信頼は別物のようだということ(職場での対人関係は要素が複雑なのでここでは考えない)。 「対人関係」においては、お互いの個としての人間性を見て信頼できるか判断される。 しかし 「社会活動(ビジネス)」においては、個人個人がその社会における役割を認識して、その役割を果たしているかどうかで信頼できるか判断される。 つまりビジネスでは「相手が望む役割を演じきれるか」が信頼できるかどうかの基準になるようである。 問題は、現実的にはビジネスと対人関係がまったく不可分ではないということに尽きる。例えばビジネスの場である会社での対人関係などは要素が複雑になる。 現在の日本のように社会性を元に信頼を構築しているような社会(他国ではどうかなんて知らんけど)では、それこそ個人同士の付き合いのコミュニティー、もしくは家に帰ったり実名性から離れられるネット空間という場でようやく社会における信頼性から切り離されて、個人同士の信頼性に身を置くことができる。 (しかしネット空間もSNSやネットビジネスなど急速に社会性を導入しようという波が来ている) どうやら一般の人というのはその両者の信頼性をうまく使い分けることが出来るように思う。それが意識的か無意識的かというのはいくらか個人差がある模様。 極端に意識しなければ使い分けることが出来ない人間というのは、おそらくそれだけで疲弊してしまい一時的には対処出来ても長続きするには相当な困難があると思われる。 -------------------------------------------------- [以下、多様性について] おそらく社会の構造として、 誕生→家庭→地域社会→小中学校→(高校→大学)→社会人→ と段階を踏む中で社会性とは何かを身に付け、社会人となる頃にはビジネスと対人関係の信頼性の使い分けがある程度自然に出来るようになるのだろう。 だがしかし実際問題として何らかの理由により社会性を身に付けられない人間というのは出てくる。 その理由の一つとして成長段階で身に付ける社会性というのが明確に規定できないためというのがある。 社会というのは決...

なぜ人は卒業式で泣くのだろうか?そこから人の持つ社会性を考えてみる

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よく卒業式で生徒が泣く光景がドラマや小説、マンガ、アニメなどで見られる。当然、現実の卒業式においてもである。 しかし自分は卒業式で泣いたことはなかった。むしろなんで泣くのか理由が分からなかったが、ふととある解釈が思いついたので書き記しておくことにする。 卒業式で泣く理由 一般論 まず卒業式で泣く理由として一般に言われているのを挙げてみる。 (1)みんな(クラスメイト)と別れるのが悲しい (2)先生と別れるのが悲しい(担任もしくは職員全体) (3)何年間も学んできた校舎と別れるのが悲しい (4)もうこの学校の生徒じゃなくなるんだと思うと悲しいとりあえずこれくらいある(細かい事情は除く)。 卒業式で泣かない理由 自分の場合 さてここで自分はそれらについてどう思っていたのか書いてみると (1)卒業すると言っても別に一生会えなくなるわけでもないので悲しくはない (2)同上 (3)校舎が無くなるわけでもなく、また無くなったとしても悲しくはない (4)よく分からない と、ここで結論としてもいいわけだが(これまではここまでしか考えなかった)、今回はもう一歩踏み込んで考えてみることにする。 これにより自分の心理と、世間一般で考えられている心理との解離の原因を探ろうという試みである。 まず(3)(4)に関しては(1)(2)とは違うと思われるので除外しておく。 『(1)みんな(クラスメイト)と別れるのが悲しい』について ここで自分の心理に注目してみる。まず自覚してるのだけれど自分には社会性があまりない。むしろ他人がどういう社会性を構築しているのかほとんど考えていなかった。ただ社会性がないと言っても友人がいなかったわけではない。どちらかというと人と付き合うときは個人として認識して、その人が持つバックグラウンド(人間関係など)についてはあまり考えてはいなかった。 ※何回かこれで痛い目を見たので今ではある程度分かるようになってはいるが… つまりは人間関係を利用した駆け引きなどアタマに入れないまま学校生活を過ごしていたことになる。それを念頭にして思い返すと小学生でも人間関係でいろんな駆け引きが行なわれていたことが分かる(理解がいまさら過ぎるが…)。 さてここで卒業式の話に立ち返ると、卒業することでそれまで築いてきた 人間関係がリセ...

日本テレビ「全国警察犯罪捜査網」 12月29日放送

12月29日 日本テレビ 夜9時頃から放送 「全国警察犯罪捜査網」 たまたまテレビで日本テレビの全国警察犯罪捜査網を見ていたんだが、あきらかにおかしい場面が… おじいさんがウニを獲っていた場面で、そのウニが小さすぎるため条例?違反で逮捕という現場だった。なんでも5cm未満のウニを獲ってはいけないとかそんな内容だった。 だけど、その捜査官の人がウニの大きさを測る場面で、ウニにノギスを当てていたのだが、なんかちょうど5cmくらいに見えた。 しかし、捜査官の人は「これは小さすぎるから」と。おまけにテロップには4.8cmと…。 いやいや、そのノギスはどうみても4.8cmじゃないから…。っていうかあれを4.8cmと読んでしまうのはあきらかにノギスの使い方を間違えているとしかいえないんじゃ? う〜ん、録画でもしていれば確認できたんだが…。どうなっているんだ、こりゃ? 誰かこの件について詳細を知ってませんか?このままじゃ、なんか納得いかん。

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