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[雑談] 知らず知らずにハマり込んでしまっている思い込みを解くことは出来るのだろうか?

 思い込みって怖いもので、「これは思い込みなんかじゃない!」と強く思っていることほど思い込みだったりする。間違ったことを思い込んでいて、それで行動したりすると取り返しが付かないことになったりもする。  では、果たして自分がハマり込んでしまっている思い込みは解くことは出来るのだろうか?という問題。  もし他の考えを知って思い込みが解けたと思ったとしても、それは別の思い込みによる上書きに過ぎないのでは無いだろうか?ちゃんと理屈があっての話だし、理屈もちゃんと通ってるのだから思い込みではないという場合も、その理屈自体が思い込みの産物であることもある。  まぁ結局のところ、思い込みに陥らないようにするには、物事について常日頃から懐疑的な視点を持っておくことが必要なのだろうと思う。ただそうは言っても、なんでもかんでも疑ってかかればいいというものでもなく、こと信頼関係が重要なときにはそういった態度は信頼関係を壊すことにもなり兼ねない。あれこれ考え過ぎるというのも疲れちゃうわけで。  おそらくこれは答えが出るような話でもないので、たまに頭の体操程度に自分が思い込みに陥ってないか考えてみるくらいでいいのかも知れない。思い込みが絶対にダメというわけでも無いわけだし、ちょっとくらいの失敗で気付き直せればそれはそれでOKだろうとも思う。

[雑談] マクロ視点絶対視という価値観と正義による暴力

 多くのものが集まる物事を見る時に、見方としては大きく マクロ的視点 ミクロ的視点 の2つに分かれる。 (その中間としてメゾ〜的視点なんていうのも入るかも知れないけど、今回は割愛)  「社会人は社会の歯車だ」という言葉。 これは人というのを社会人という大きなくくりとして見ている。マクロ視点。 (ここでは、この言葉自体が正しいとか間違っているということは扱わない)  では、この言葉を次のように言い換えたらどうなるか? 「お前は社会人なんだから社会の歯車に過ぎないんだよ!」 あえて乱暴な物言いとしたが、さてこれはどういう扱いとなるか。 まず「お前」と来ているため、それは人個人を示すためこれはミクロの話である。 そこに「社会人」というマクロの視点からの価値観が来ている。  論法的には お前は社会人だ 社会人は社会の歯車だ だからお前は歯車に過ぎない という構造。  重要なのは、最後の 「お前は歯車に過ぎない」 という視点は、これ単独では抜き出せないということ。ミクロとマクロの話が混ざってしまっているため適用範囲がこじれている。  人個人はあくまでも個人でしかなく、社会人というのはその個人が集まって形成される包括的な価値観。「お前は歯車に過ぎない」というのは個人には当てはまらないし、社会人というマクロ的視点が入り込まないときにはその言葉は意味を成さない。   昨今、こういったマクロとミクロをごっちゃにした話が人個人に対してぶつけられるということがよく見受けられる。確かに社会人という 「立場」 というのは日々生活する上では、常に付きまとってくる。だからといって、それは人個人、特に私的な内面の部分にまで当てはまるかどうかは疑問でもある。 そういう立場を軸に自己を確立している人もいるだろう。 しかしそうではなく、あくまでも個は個という価値観で自己を確立している人もいる。 自分が一体なんなのか、自分でも理解出来ないときもあるし、人生とは大概にしてそんなものかも知れないということもある。  マクロ視点というのは絶対のものでも無いし、ミクロの話と一緒に行うには慎重さを要する。これを絶対の価値観としてしまうと、最近何かにつけて取り沙汰される正...

[雑談] 悪意はあったのか、それとも悪意として解釈されただけなのか

何かしらの行動の結果が多くの厄災を招いたとき、それを引き起こした人物は一体何を考えてそれを行ったのか。 という問題について、その人物の意図を推察するなら (1)悪意を持って厄災を招くつもりで行動した (2)厄災など起こすつもりも無く、良い結果になるだろうと思って行動した (3)何も考えずに適当に行動したら、たまたま結果がそうなった の3パターンが考えられるかなと。 そうであるのに、「結果がすべて」「結果と本人の意図は直結している」としてしまうと、3パターンの中の1番目として解釈されることになるだろう。 むしろ厄災を引き起こした張本人が絶対的な悪であった方が、厄災に巻き込まれた側からすれば救いになるのかも知れない。 そうなると 「厄災を引き起こした人物が実際にどう考えていたか」 という問いは、得てして 「その人物はこう考えていたとした方が都合がいい」 という願望にスライドしていくのではないだろうか。 果たして人というのは真実を求めるのか、それとも自らにとって都合がいい真実を創り上げるのか。おそらくはそれは人それぞれの考えによるのだろう。そして傍観者としての立場、当事者としての立場など、その時々に置かれている状況によっても考え方は変わってくると思われる。

[雑談] 自分のことを否定する言葉

あなたの好物がチョコレートをだとしよう。 あるとき他の人から 「チョコレートなんか好きなのか。だからお前はダメなんだ」 と言われたとする。 そのときあなたはその言葉をどう捉えるだろうか? 簡単に以下の2パターンを考えてみる。 「もしかしたら自分はダメなのかも知れない。チョコレートはやめよう」 「ダメなんかじゃない。そんなことを言われようとも、好きなものは好き」 その言葉から、それを受け止める場合とそれに対して反発する場合。 自己を否定される。その言葉を受けたときに人は一体どのように考えるのか。 否定されたことをそのまま受け止めてしまうか、 それとも 否定されたことに反発して自己の属性に対する認識を強固にするか。  簡単には「否定の言葉」は、自分のことに対する認識を揺らぎを与えて、それにより自分が自分のことをどう認識しているのかを考えることを誘発すると思われる。 否定の言葉を例にしたが、肯定する言葉、まったく関係ない言葉など、どれでも多かれ少なかれ同様の要素があるものであろう。  しかし、そもそも例に上げた否定の言葉自体の論理性がヒドい。 「チョコレートが好き」というのと「だからダメ」というのはそのままではイコールで結ぶことは出来ない。それをイコールで結ぶには、「なぜチョコレートが好きだとダメなのか?」が提示されそれが論理性のある説明で無ければならない。  なので、  「この人の言ってることはまったくおかしな話だ。相手にしないでおこう」 というようにもなる。先程「否定の言葉」で認識が揺らぐと書いたが、別に揺らぐ必要というもの無い。  そもそも他人の言葉で自己が揺らぐということ自体、自分自身の中で「自分」というものがあやふやな存在であるとも言えよう。仮に自分というのが強固な存在だったとしても、それは思い込みでしかない場合もあり、強固であるがゆえに脆いものでもあったりする。自分の中の自分の存在が弱いと、人の言葉を鵜呑みにして他人に左右されやすいということもあるだろう。  さて、そうなると人が考える「自分」とは一体なんなのだろうか?と疑問にもなるし、おそらくそれには答えもない。他人の言葉で揺らぎ、自分自身で考えることでも揺らぎ、強固であれば壊れやすく、弱すぎ...

[雑談] 結果論と事後予言についての雑感

予言とは過去や現在のことを元に、これから起こるであろうことを束ねて未来を予測するもの。予言する者により不確かさは大きくことなり、予言が当たる場合、当たらない場合など様々でもある。 これに対し、事後予言とは結果が起きてから予言を立てるものであり、そこには予言を根拠付ける様々な事柄で補強される。結果が分かっているのだから予言ではなく単なる事実の指摘でしか無い。また結果が分かっているのだから、その原因である根拠を集めるのも容易。 そしてこれに近いことが結果論においては行われる。結果を見てからあれが原因、これが原因という類のもの。後出しじゃんけんとも言われる。 例えば結果論に基づく発言は以下のようになる 不意に雨に降られてずぶ濡れになったとき、 「雨が降ったのだから傘を持って出かけるのは当たり前。傘を持っていないお前が悪い」 宝くじを買ったのに残念賞しか当たらなかったとき、 「宝くじなんて当たるわけがないのは当たり前。欲を出したお前が悪い」 結果を見てからそうなったのは当然という論調。そしてその結果から原因が導き出される。 上の2つの例はあえて意地が悪い回答にしているが、得てして原因として人の責任にされやすい。これは現在では自己責任論が幅を効かせているというのも踏まえているが、結果論と自己責任論が結び付きやすいのかどうかはここでは論じない。 結果論は絶対の判断を示すなどということはい。その他の解釈としては 雨に降られてずぶ濡れになったケースでは、 天気予報を見たかどうか 見た場合、降水確率から傘が必要かどうかの判断は適切だったか 天気予報も外れるときもあるし、運が悪ければずぶ濡れになることもある など。結果論以外の視点による判断も多様にあり得る。結果論かそれ以外の論であろうとも"それしかない"と思い込むのは思考停止につながりやすい。 結果論、事後予言では、大概にして過去の時点の判断が適切だったかどうかが無視される。これは結果を見てからその原因だけを判定しているからであり、結果から外れた要素は無視されるためである。 現代社会では物事は複雑化し多層化しているため、原因と結果が分かりやすいことばかりではない。悪意などなく善意による行動でも失敗することはあるし、成功しても別の視点で見ればそれは失敗ということも...

[雑談] XX年後の未来から異世界転生ものが多い現代社会の死生観を分析するとどういう結果になるのだろう

いまではかなりの数の異世界転生物語のコンテンツ(小説、アニメなどなど)が増えている。もしかしたら遠い未来の人達がこれらの作品を分析したら、西暦2000年の初頭には人は死んだら異世界に生けるものと信じていたという思想が流行していたと解釈するかも知れないし、単なるサブカルチャー界隈での流行だったとされるだけかも知れない。 それでも人の想像に死後の世界が描かれるというのは、現代人の何らかの死生観が反映されているとも見れるわけで、もしかしたら単なる流行以上の発見がなされるのかも知れない。 まぁ現代医学やテクノロジーから判断するに、遠い未来においては人は死すら克服しているのかも知れないわけで、そうなるともはや死生観など理解されなくなっているということもあり得はする。遠い過去の人類が抱いていた何かしらの信仰の一種という扱いになっていくのだろうか。

[雑談] 事実と願望は違う

いつものブログとは趣向を変えて、少しばかり人が意見を言っていることに対して生じる齟齬を考えてみることにする。 何かしらの物事に対する意見として 「それはこういうことです」(事実としての言及) 「それはこうあるべきです」(こうであって欲しいという願望) というような2つのパターンがある。そしてこの2つは文章及び口頭においてはどちらのパターンを指しているのか判断出来ないことが多い。もし話し手が現実世界と精神世界の違いを意識していない場合、それはどちらの意味なのかは話している方も事実なのか願望なのかを分けて考えてはいないことになる。 それは聞き手の方も同様で、たとえ明確に事実としての言及があったとしても聞き手が事実なのか願望なのかを分けて受け取っているとは限らない。 これは現実世界と精神世界を明確に意識している人にも起こりえるだろう。人の思い込みというのは本人にしてみても強固なもので、事実だと思い込んでいるものが実際には願望を反映したものだということもあり得る。また信頼できる人から事実だと知らされていたことが、実際にはその人の願望を聞かされていたという場合もある。これまでの常識や理論では事実だったことも、それが根底からひっくり返るということも。 そして人はつまらない事実ではなく、こうあって欲しい、こうあるべきだという願望によって自らの行動を選択する。行動をせず現状維持という現実的判断をしている場合でも、「いまの状況は変えるべきではない」という願望から来ているのかも知れない。 (現状を変えるべきだという意見と、現状を変えるべきではないという意見のぶつかり合いは結局は両者の願望のぶつかり合いなのかも知れない) もし自分の意見が事実なのか願望なのかがハッキリしない場合、その意見がどういった考えや根拠から成り立っているのかを分析して調べていけばある程度は判別出来るだろう。 (昨今はフェイクニュースなどが多く氾濫しているため、そういう偽情報に引っかかると判別がそういったものに引きずられたものと化してしまうが) 結局のところ、無限に時間があっておまけに現在過去未来世の中のすべてを見通すことの出来る神の視点でも有していない限り、確実な事実などは持つことは出来ない。人は人としての限界がある以上、事実と願望が入り混じった中から何かしらを選択し続けていくし...

研究の世界にある英語の壁(ニュース記事より)

Nature.comのニュース記事を読んでいると Scientists struggle with confusing journal guidelines というのが載っていました(2018年11月8日の記事)。 英語の論文誌への投稿に関する、100以上の国の7000人近い研究者を対象としたオンラインでの意識調査の解説みたいです。 なんでも英語を第一言語としない国の研究者は、英語の論文誌への投稿を大変に感じているとかなんとか。単に英語を読み書きするという話だけでなく、論文自体のあまり明文化されていない投稿のルールがその要因になっているとも。それと投稿後の査読などのやり取りなども。 まぁ言語以外に文化的な差異もあるんでしょうか?ニュース記事中の図を見ると、日本、韓国、中国で苦手意識が高いと出てます。ただ図にあるのは他にブラジルとインドだけなので、詳しく知るには大元の調査結果を見ないとわからないですね🤔 研究の世界はその中にいないとなかなか分からないことが多いのでしょうけど、研究だけではなく言語の壁があったりと結構大変そうです。 関連記事に以下のような記事(2008年のものですが)があったので、これを読めば何かしらの背景みたいのはつかめるかもです。 Language: The language barrier : Nature News 時間があるときにでも読んで見ることにしましょう😉 Amazon 英語関係の書籍

お化けや呪いなんてあるわけがない…?

お化けとか呪いなんて非科学的なモノが存在するわけ無いじゃん、なんて思ってたけど、 それは逆に考えると 非科学的なモノが存在するのならお化けも呪いも存在することになるっていう…。 そんでもって人間の想像力なんてその最たるもので、いくらでも非科学的なモノを創り出してしまう。 それが単に個人の脳内にしかない産物ならそれまでだけど、メディアやらコミュニケーションやらなんやらで伝達・交換がなされていくとあたかもそれが本当にあるかのようになってしまう。空想の産物だとしても根っこはリアルの「何か」と結びついているわけで大勢で探せばそれが本当であるという欠片くらいはすぐに見つかり、本当であるという認識が強固になっていく。そうして本当であるという前提を元にいろいろリアル側に生み出されていくと、やがては本当のモノになっていく。 まぁどっかの誰かが空気を読まずにネタばらしすれば一瞬で終わるだろうし、それでも終わらないのならそういうものとして残っていくかそれとも科学の進歩で解明されていくかのどちらか。 しかし「何かを信じる」なんてのは人間の内面の最たるモノ。そう簡単には当事者が解明を許されるものでもない。 世代交代でも引き継がれるレベルのものは文明が滅びるのを待つか、それとも最近流行りのAIさんにお任せすることになるか、はてさてどうなることやら。 AIがお化けや呪いを生み出して、それを人類が消費しているなんて未来もありそうだ。

現代社会における信頼性と多様な価値観について

ようやく現代社会における「信頼」とは何かという問いに対する解の取っ掛かりにたどり着けたかも知れない。 要は「対人関係」での信頼と「社会活動(ビジネス)」における信頼は別物のようだということ(職場での対人関係は要素が複雑なのでここでは考えない)。 「対人関係」においては、お互いの個としての人間性を見て信頼できるか判断される。 しかし 「社会活動(ビジネス)」においては、個人個人がその社会における役割を認識して、その役割を果たしているかどうかで信頼できるか判断される。 つまりビジネスでは「相手が望む役割を演じきれるか」が信頼できるかどうかの基準になるようである。 問題は、現実的にはビジネスと対人関係がまったく不可分ではないということに尽きる。例えばビジネスの場である会社での対人関係などは要素が複雑になる。 現在の日本のように社会性を元に信頼を構築しているような社会(他国ではどうかなんて知らんけど)では、それこそ個人同士の付き合いのコミュニティー、もしくは家に帰ったり実名性から離れられるネット空間という場でようやく社会における信頼性から切り離されて、個人同士の信頼性に身を置くことができる。 (しかしネット空間もSNSやネットビジネスなど急速に社会性を導入しようという波が来ている) どうやら一般の人というのはその両者の信頼性をうまく使い分けることが出来るように思う。それが意識的か無意識的かというのはいくらか個人差がある模様。 極端に意識しなければ使い分けることが出来ない人間というのは、おそらくそれだけで疲弊してしまい一時的には対処出来ても長続きするには相当な困難があると思われる。 -------------------------------------------------- [以下、多様性について] おそらく社会の構造として、 誕生→家庭→地域社会→小中学校→(高校→大学)→社会人→ と段階を踏む中で社会性とは何かを身に付け、社会人となる頃にはビジネスと対人関係の信頼性の使い分けがある程度自然に出来るようになるのだろう。 だがしかし実際問題として何らかの理由により社会性を身に付けられない人間というのは出てくる。 その理由の一つとして成長段階で身に付ける社会性というのが明確に規定できないためというのがある。 社会というのは決...

なぜ人は卒業式で泣くのだろうか?そこから人の持つ社会性を考えてみる

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よく卒業式で生徒が泣く光景がドラマや小説、マンガ、アニメなどで見られる。当然、現実の卒業式においてもである。 しかし自分は卒業式で泣いたことはなかった。むしろなんで泣くのか理由が分からなかったが、ふととある解釈が思いついたので書き記しておくことにする。 卒業式で泣く理由 一般論 まず卒業式で泣く理由として一般に言われているのを挙げてみる。 (1)みんな(クラスメイト)と別れるのが悲しい (2)先生と別れるのが悲しい(担任もしくは職員全体) (3)何年間も学んできた校舎と別れるのが悲しい (4)もうこの学校の生徒じゃなくなるんだと思うと悲しいとりあえずこれくらいある(細かい事情は除く)。 卒業式で泣かない理由 自分の場合 さてここで自分はそれらについてどう思っていたのか書いてみると (1)卒業すると言っても別に一生会えなくなるわけでもないので悲しくはない (2)同上 (3)校舎が無くなるわけでもなく、また無くなったとしても悲しくはない (4)よく分からない と、ここで結論としてもいいわけだが(これまではここまでしか考えなかった)、今回はもう一歩踏み込んで考えてみることにする。 これにより自分の心理と、世間一般で考えられている心理との解離の原因を探ろうという試みである。 まず(3)(4)に関しては(1)(2)とは違うと思われるので除外しておく。 『(1)みんな(クラスメイト)と別れるのが悲しい』について ここで自分の心理に注目してみる。まず自覚してるのだけれど自分には社会性があまりない。むしろ他人がどういう社会性を構築しているのかほとんど考えていなかった。ただ社会性がないと言っても友人がいなかったわけではない。どちらかというと人と付き合うときは個人として認識して、その人が持つバックグラウンド(人間関係など)についてはあまり考えてはいなかった。 ※何回かこれで痛い目を見たので今ではある程度分かるようになってはいるが… つまりは人間関係を利用した駆け引きなどアタマに入れないまま学校生活を過ごしていたことになる。それを念頭にして思い返すと小学生でも人間関係でいろんな駆け引きが行なわれていたことが分かる(理解がいまさら過ぎるが…)。 さてここで卒業式の話に立ち返ると、卒業することでそれまで築いてきた 人間関係がリセ...

会社の人間関係でうまくいかないあなたへ - 上手な上手な社会での生き方

このゆたりんブログでは初めての試みとして、人間関係の問題について考えてみます。 今回考えるケースはこちら 『職場でなぜか自分にだけ態度が冷たい相手がいる、仲間外れにされる』 [とある職場でのケース] 登場人物 ・会社員Y(主人公) ・先輩社員N ・上司 ある会社員Yさんがいます。Yさんはなるべく相手の意見を聞いて対話を試みて、たとえ上司にでも自分の意見を言っていました。同じ部署の職場に先輩社員Nがいました。Nは上司に気に入られていて、周りの社員ともよい雰囲気で付き合っています。しかしNはYさんに対してだけ、非常に冷たい事務処理的な態度しかしませんでした。しかしYさんは特にNの機嫌を損ねた覚えはありません。Yさんはできるだけ相手の気持ちを考えてそんなNにも友好的な態度で接しましたが、どうしてもNの態度は変わりませんでした。Yさんはなにがいけなかったか悩んでしまい精神的にも疲労してしまいました。 また次第にNと仲のよい社員からも同じような態度をとられるようになり、Yさんは職場から浮いた存在になってしまいました。仲間外れです。結局Yさんは職場での人間関係の悪化から仕事が手につかなくなってしまい、最終的には追い詰められて退職してしまいます。 なぜNはYさんにだけ素っ気ない態度を取ったのでしょうか?人間関係を良好に築ける人はすぐになにが問題か分かるでしょうが、ここでは分からない人向けに解説していきます。 [解説] 先輩社員Nの 行動原理 を考えると非常にわかりやすいです。 ・上司の言うことにはなんでも無条件で従う ・上司に反抗的な社員にはとことん冷たい態度(事務処理的)をとる ・上司に従う社員同士では表面上仲良く振る舞う(上司が認めた相手を排除するのは、上司を裏切る行為だから) ここまでくれば取るべき戦略は明らかです。 とにかく上司に取り行ってごきげんをとること。そうすればNは表面上はあなたを仲間と認めざるを得ない。 ※ただし、これは問題が進行してしまうと使えません。Yさんを排除する流れになってしまうと、いくら上司に取り入ろうとも、Nは上司に根拠のない告げ口するなどしてYさんの排除をしてきます。上司は始めから従っていたNの話を信用してしまいますから。 [解決方法] そのような相手の行動原理は「上司に従うこと」なので、い...

[科学] 大人になると、怖い体験が忘れにくくなる?

なんて論文が、雑誌「Science」に投稿されていました。 Science 「Perineuronal Nets Protect Fear Memories from Erasure」 SCIENTIFIC AMERICANの60-Second Scienceというコーナーでも、 「Freeing The Mind to Forget」 として紹介されています。 あくまでもラットを使った実験なんですけど、大人になると感情(苦痛?)を司る脳の細胞が、ある分子ネット(?)で囲まれて、感情を忘れにくくなっているそうな。逆に若いラットでは、そのようなネットが少ないので、そういった感情は忘れやすいとのこと。 おまけに、その分子を取り除くような処理をすると、若いラットと同様に忘れやすくなったそうな。 記事を読んだだけだと、この感情というのがトラウマ的なものなのか、日常のささいなイラつきなのかはわかりませんでしたけど、ひょっとしたら大人が些細なことでイライラするのはこれが原因じゃないかなと思ってみたりするわけです。 この研究が進めば、忘れたい記憶を消したり、イライラを解消することができるようになったりできるのでしょうか? ちなみにうちの環境ではアブストラクトしか読めないので、論文全体は見ていないです。 なんか、忘れたい記憶がたくさんあるので、自分の生きているうちにこの研究が進展してくれることを望みます~。というか、忘れたくても忘れられないのは、記事にもあるように大人になったからなのかなぁ?マウスとヒトの脳の違いってのもあるから、一概にそうは言えないですけどね。

[用語] ゲシュタルト崩壊について

ゲシュタルト崩壊 Wikipedia なんか一つの文字をずっと見続けていると、その文字がなんだかよくわからない形に見えるときってありませんか?何という感じというか、言葉ではうまく説明できないんですけど。 でも、こういう現象をゲシュタルト崩壊っていうみたいです。認識力が低下していくとかそんな感じ? 自分の場合、宿題で漢字の書き取りで同じ漢字をずーと続けて書いていると、自分はいったいなんの字を書いているんだろうと悩んだりしたことがありました。 でもゲシュタルト崩壊っていうのは心理学の用語みたいですね。脳科学的に分析したら、脳細胞がどんな状態になったら、こういう現象が起こるか知りたいところです。

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