[雑談] マクロ視点絶対視という価値観と正義による暴力

 多くのものが集まる物事を見る時に、見方としては大きく
  • マクロ的視点
  • ミクロ的視点
の2つに分かれる。
(その中間としてメゾ〜的視点なんていうのも入るかも知れないけど、今回は割愛)

 「社会人は社会の歯車だ」という言葉。
これは人というのを社会人という大きなくくりとして見ている。マクロ視点。
(ここでは、この言葉自体が正しいとか間違っているということは扱わない)

 では、この言葉を次のように言い換えたらどうなるか?
「お前は社会人なんだから社会の歯車に過ぎないんだよ!」
あえて乱暴な物言いとしたが、さてこれはどういう扱いとなるか。
まず「お前」と来ているため、それは人個人を示すためこれはミクロの話である。
そこに「社会人」というマクロの視点からの価値観が来ている。

 論法的には
  • お前は社会人だ
  • 社会人は社会の歯車だ
  • だからお前は歯車に過ぎない
という構造。

 重要なのは、最後の「お前は歯車に過ぎない」という視点は、これ単独では抜き出せないということ。ミクロとマクロの話が混ざってしまっているため適用範囲がこじれている。

 人個人はあくまでも個人でしかなく、社会人というのはその個人が集まって形成される包括的な価値観。「お前は歯車に過ぎない」というのは個人には当てはまらないし、社会人というマクロ的視点が入り込まないときにはその言葉は意味を成さない。

  昨今、こういったマクロとミクロをごっちゃにした話が人個人に対してぶつけられるということがよく見受けられる。確かに社会人という「立場」というのは日々生活する上では、常に付きまとってくる。だからといって、それは人個人、特に私的な内面の部分にまで当てはまるかどうかは疑問でもある。
そういう立場を軸に自己を確立している人もいるだろう。
しかしそうではなく、あくまでも個は個という価値観で自己を確立している人もいる。
自分が一体なんなのか、自分でも理解出来ないときもあるし、人生とは大概にしてそんなものかも知れないということもある。

 マクロ視点というのは絶対のものでも無いし、ミクロの話と一緒に行うには慎重さを要する。これを絶対の価値観としてしまうと、最近何かにつけて取り沙汰される正義による暴力に繋がっていくのだと思われる。
「マクロとミクロ」と2つに分けるのも乱暴な分け方でもあるが、どちらか一方の視点を絶対視するのはそれよりも遥かに乱暴な扱いでもある。

 ただ往々にして人というのは絶対的な価値観に酔いやすいものでもあるし、自分はそうではないという人でも知らず知らずに酔ってしまっていることもある。自分が一体どういった視点で物事を見ているのか、自分に当てられている言葉や価値観がどういった性質のものなのかというのは、気が向いた時にでも考えてみるといいのかも知れない。


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