[雑談] 結果論と事後予言についての雑感

予言とは過去や現在のことを元に、これから起こるであろうことを束ねて未来を予測するもの。予言する者により不確かさは大きくことなり、予言が当たる場合、当たらない場合など様々でもある。

これに対し、事後予言とは結果が起きてから予言を立てるものであり、そこには予言を根拠付ける様々な事柄で補強される。結果が分かっているのだから予言ではなく単なる事実の指摘でしか無い。また結果が分かっているのだから、その原因である根拠を集めるのも容易。

そしてこれに近いことが結果論においては行われる。結果を見てからあれが原因、これが原因という類のもの。後出しじゃんけんとも言われる。
例えば結果論に基づく発言は以下のようになる

不意に雨に降られてずぶ濡れになったとき、
「雨が降ったのだから傘を持って出かけるのは当たり前。傘を持っていないお前が悪い」

宝くじを買ったのに残念賞しか当たらなかったとき、
「宝くじなんて当たるわけがないのは当たり前。欲を出したお前が悪い」

結果を見てからそうなったのは当然という論調。そしてその結果から原因が導き出される。
上の2つの例はあえて意地が悪い回答にしているが、得てして原因として人の責任にされやすい。これは現在では自己責任論が幅を効かせているというのも踏まえているが、結果論と自己責任論が結び付きやすいのかどうかはここでは論じない。

結果論は絶対の判断を示すなどということはい。その他の解釈としては
雨に降られてずぶ濡れになったケースでは、
  • 天気予報を見たかどうか
  • 見た場合、降水確率から傘が必要かどうかの判断は適切だったか
  • 天気予報も外れるときもあるし、運が悪ければずぶ濡れになることもある
など。結果論以外の視点による判断も多様にあり得る。結果論かそれ以外の論であろうとも"それしかない"と思い込むのは思考停止につながりやすい。

結果論、事後予言では、大概にして過去の時点の判断が適切だったかどうかが無視される。これは結果を見てからその原因だけを判定しているからであり、結果から外れた要素は無視されるためである。

現代社会では物事は複雑化し多層化しているため、原因と結果が分かりやすいことばかりではない。悪意などなく善意による行動でも失敗することはあるし、成功しても別の視点で見ればそれは失敗ということもあり得る。善悪ではなく、確率的に成功率が高い場合でも結果として失敗することもある。
複雑化するこの社会で、視野が狭く分かりやすい結果、分かりやすい責任ばかりを追い求め続けると、結果論、事後予言、自己責任論に陥りやすい。物事に対する判断力がある人材も育ち難いだろう。物事を進める実力があったとしても失敗すれば責任追及され失脚する。そして、いかにして責任追及から逃れるかという処世術に長けた者が居座り続けるという図式にハマり込む。

結果論で原因を押し付けられると、原因としては当たっていることが多いため自分の責任として感じやすい。しかし、原因は他には無いのか、そもそも結果の判断が適切に行われていたのか、果たして誰かの責任を取るべき類の話なのか、など考慮すべきことは多様にある。結果論に反論することは安易な責任逃れと捉えられてしまうことは多いだろうが、物事や判断を適切に判定しようとするならそれはそう言われるそしりはないであろう。


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