[雑談] 事実と願望は違う

いつものブログとは趣向を変えて、少しばかり人が意見を言っていることに対して生じる齟齬を考えてみることにする。

何かしらの物事に対する意見として
  • 「それはこういうことです」(事実としての言及)
  • 「それはこうあるべきです」(こうであって欲しいという願望)
というような2つのパターンがある。そしてこの2つは文章及び口頭においてはどちらのパターンを指しているのか判断出来ないことが多い。もし話し手が現実世界と精神世界の違いを意識していない場合、それはどちらの意味なのかは話している方も事実なのか願望なのかを分けて考えてはいないことになる。
それは聞き手の方も同様で、たとえ明確に事実としての言及があったとしても聞き手が事実なのか願望なのかを分けて受け取っているとは限らない。

これは現実世界と精神世界を明確に意識している人にも起こりえるだろう。人の思い込みというのは本人にしてみても強固なもので、事実だと思い込んでいるものが実際には願望を反映したものだということもあり得る。また信頼できる人から事実だと知らされていたことが、実際にはその人の願望を聞かされていたという場合もある。これまでの常識や理論では事実だったことも、それが根底からひっくり返るということも。

そして人はつまらない事実ではなく、こうあって欲しい、こうあるべきだという願望によって自らの行動を選択する。行動をせず現状維持という現実的判断をしている場合でも、「いまの状況は変えるべきではない」という願望から来ているのかも知れない。
(現状を変えるべきだという意見と、現状を変えるべきではないという意見のぶつかり合いは結局は両者の願望のぶつかり合いなのかも知れない)

もし自分の意見が事実なのか願望なのかがハッキリしない場合、その意見がどういった考えや根拠から成り立っているのかを分析して調べていけばある程度は判別出来るだろう。
(昨今はフェイクニュースなどが多く氾濫しているため、そういう偽情報に引っかかると判別がそういったものに引きずられたものと化してしまうが)

結局のところ、無限に時間があっておまけに現在過去未来世の中のすべてを見通すことの出来る神の視点でも有していない限り、確実な事実などは持つことは出来ない。人は人としての限界がある以上、事実と願望が入り混じった中から何かしらを選択し続けていくしかないわけである。



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