[雑談] 自分のことを否定する言葉
あなたの好物がチョコレートをだとしよう。
あるとき他の人から
「チョコレートなんか好きなのか。だからお前はダメなんだ」
と言われたとする。
そのときあなたはその言葉をどう捉えるだろうか?
簡単に以下の2パターンを考えてみる。
「もしかしたら自分はダメなのかも知れない。チョコレートはやめよう」
「ダメなんかじゃない。そんなことを言われようとも、好きなものは好き」
その言葉から、それを受け止める場合とそれに対して反発する場合。
自己を否定される。その言葉を受けたときに人は一体どのように考えるのか。
簡単には「否定の言葉」は、自分のことに対する認識を揺らぎを与えて、それにより自分が自分のことをどう認識しているのかを考えることを誘発すると思われる。
否定の言葉を例にしたが、肯定する言葉、まったく関係ない言葉など、どれでも多かれ少なかれ同様の要素があるものであろう。
しかし、そもそも例に上げた否定の言葉自体の論理性がヒドい。
「チョコレートが好き」というのと「だからダメ」というのはそのままではイコールで結ぶことは出来ない。それをイコールで結ぶには、「なぜチョコレートが好きだとダメなのか?」が提示されそれが論理性のある説明で無ければならない。
なので、
「この人の言ってることはまったくおかしな話だ。相手にしないでおこう」
というようにもなる。先程「否定の言葉」で認識が揺らぐと書いたが、別に揺らぐ必要というもの無い。
そもそも他人の言葉で自己が揺らぐということ自体、自分自身の中で「自分」というものがあやふやな存在であるとも言えよう。仮に自分というのが強固な存在だったとしても、それは思い込みでしかない場合もあり、強固であるがゆえに脆いものでもあったりする。自分の中の自分の存在が弱いと、人の言葉を鵜呑みにして他人に左右されやすいということもあるだろう。
さて、そうなると人が考える「自分」とは一体なんなのだろうか?と疑問にもなるし、おそらくそれには答えもない。他人の言葉で揺らぎ、自分自身で考えることでも揺らぎ、強固であれば壊れやすく、弱すぎてもまた自分を持てていない。
たぶん人は生涯を通して「自分」というものの存在と付き合っていくのだろう。
ただ四六時中そんなことを考えるのも疲れるだけで、意識に昇るか昇らないかくらいの微妙なところで思考の迷路に漂わせておくのが「自分の中の自分」との楽な付き合い方なのかも知れない。
あるとき他の人から
「チョコレートなんか好きなのか。だからお前はダメなんだ」
と言われたとする。
そのときあなたはその言葉をどう捉えるだろうか?
簡単に以下の2パターンを考えてみる。
「もしかしたら自分はダメなのかも知れない。チョコレートはやめよう」
「ダメなんかじゃない。そんなことを言われようとも、好きなものは好き」
その言葉から、それを受け止める場合とそれに対して反発する場合。
自己を否定される。その言葉を受けたときに人は一体どのように考えるのか。
- 否定されたことをそのまま受け止めてしまうか、
- 否定されたことに反発して自己の属性に対する認識を強固にするか。
簡単には「否定の言葉」は、自分のことに対する認識を揺らぎを与えて、それにより自分が自分のことをどう認識しているのかを考えることを誘発すると思われる。
否定の言葉を例にしたが、肯定する言葉、まったく関係ない言葉など、どれでも多かれ少なかれ同様の要素があるものであろう。
しかし、そもそも例に上げた否定の言葉自体の論理性がヒドい。
「チョコレートが好き」というのと「だからダメ」というのはそのままではイコールで結ぶことは出来ない。それをイコールで結ぶには、「なぜチョコレートが好きだとダメなのか?」が提示されそれが論理性のある説明で無ければならない。
なので、
「この人の言ってることはまったくおかしな話だ。相手にしないでおこう」
というようにもなる。先程「否定の言葉」で認識が揺らぐと書いたが、別に揺らぐ必要というもの無い。
そもそも他人の言葉で自己が揺らぐということ自体、自分自身の中で「自分」というものがあやふやな存在であるとも言えよう。仮に自分というのが強固な存在だったとしても、それは思い込みでしかない場合もあり、強固であるがゆえに脆いものでもあったりする。自分の中の自分の存在が弱いと、人の言葉を鵜呑みにして他人に左右されやすいということもあるだろう。
さて、そうなると人が考える「自分」とは一体なんなのだろうか?と疑問にもなるし、おそらくそれには答えもない。他人の言葉で揺らぎ、自分自身で考えることでも揺らぎ、強固であれば壊れやすく、弱すぎてもまた自分を持てていない。
たぶん人は生涯を通して「自分」というものの存在と付き合っていくのだろう。
ただ四六時中そんなことを考えるのも疲れるだけで、意識に昇るか昇らないかくらいの微妙なところで思考の迷路に漂わせておくのが「自分の中の自分」との楽な付き合い方なのかも知れない。
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