[雑談] 悪意はあったのか、それとも悪意として解釈されただけなのか

何かしらの行動の結果が多くの厄災を招いたとき、それを引き起こした人物は一体何を考えてそれを行ったのか。
という問題について、その人物の意図を推察するなら
(1)悪意を持って厄災を招くつもりで行動した
(2)厄災など起こすつもりも無く、良い結果になるだろうと思って行動した
(3)何も考えずに適当に行動したら、たまたま結果がそうなった
の3パターンが考えられるかなと。

そうであるのに、「結果がすべて」「結果と本人の意図は直結している」としてしまうと、3パターンの中の1番目として解釈されることになるだろう。
むしろ厄災を引き起こした張本人が絶対的な悪であった方が、厄災に巻き込まれた側からすれば救いになるのかも知れない。

そうなると
「厄災を引き起こした人物が実際にどう考えていたか」
という問いは、得てして
「その人物はこう考えていたとした方が都合がいい」
という願望にスライドしていくのではないだろうか。

果たして人というのは真実を求めるのか、それとも自らにとって都合がいい真実を創り上げるのか。おそらくはそれは人それぞれの考えによるのだろう。そして傍観者としての立場、当事者としての立場など、その時々に置かれている状況によっても考え方は変わってくると思われる。


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